G3874. paraklésis ►慰め→激励。

・神の法廷で良い評決を受ける根拠をあたえる、個人的な勧めのこと。

・法的な主張や支持。

・神の評決に達するために個人的に与える親密な要請。主がいかに実質的価値のある事実に重きを置いているかを明らかにする親密な要請。

聖なる説得。

参考 「慰める」日本語の意味

1 何かをして、一時の悲しみや苦しみをまぎらせる。心を楽しませる。心をなごやかに静める。「失意の友を—・める」「音楽に—・められる」

2 労をねぎらう。いたわってやる。

「下向には京へ寄りて、四、五日も—・め」〈浮・五人女・二〉

3 なだめる。すかして落ち着かせる。

 慰めることによってもたらされるものは、その人の心の落ち着きです。しかし、原語は、神の裁きを前提にしての励ましです。

ルカ

2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。また、聖霊が彼の上におられた。

慰められる→激励される。当時のイスラエルの霊的状態は、低調でした。メシヤが現れるならば、大いに励まされて、信仰に歩むようになるはずです。シメオンは、そのことを期待していたのです。この激励は、神の法廷に立つにふさわしい証拠をもたらすようになるための激励のことです。メシヤが来られてローマの支配から開放されるというようなこの世的な「慰め」ではありません。

ルカ

6:24 しかし、富んでいるあなたがたは哀れです。あなたがたは慰めをすでに受けているからです。

 「慰め」→励まし。本来神の前に裁きを受け報いが受けられることをもって励ましとするところを、この世の富をもって励みとしているために、神の報いに熱心になれないので哀れ。

使徒

4:36 キプロス生まれのレビ人で、使徒たちにバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、

4:37 所有していた畑を売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。

「慰め」の子。→励ましの子。慰めは、心の問題であり、いくら慰めを受けたとしても信仰に堅く立つことはできない。

使徒

9:31 こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地にわたり築き上げられて平安を得た。主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続け、信者の数が増えていった。

「励まされ」→信者が堅く立ち、信仰に歩む動機付けとなるのは、神の裁きの座に立つことです。そこで評価を受けるのです。そのときに備えてふさわしい実を結ぶように励まされたのです。

 築き上げられた結果、完全さを得たのです。迫害の中での信者の歩みは、必ずしも平安を持たないのです。また、築き上げられる目的は、平安ではありません。なぜならば、平安は前進の原動力とはならないのです。彼らが主の御心を行うことで完全な者になることで可能なのです。そのような状態であるからこそ、主を恐れ、聖霊が激励されて、聖霊が豊かに働き、前進が可能なのです。聖霊が働くので、信者の数が増えるのです。

・「平安」→完全さ。神の御心を行うことによってもたらされる完全さ。

使徒

13:15 律法と預言者たちの書の朗読があった後、会堂司たちは彼らのところに人を行かせて、こう言った。「兄弟たち。あなたがたに、この人たちのために何か奨励のことばがあれば、お話しください。」

「奨励」の言葉。→神から報いが受けられるような歩みをするように奨励する言葉。

使徒

15:28 聖霊と私たちは、次の必要なことのほかには、あなたがたに、それ以上のどんな重荷も負わせないことを決めました。

15:29 すなわち、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、淫らな行いを避けることです。これらを避けていれば、それで結構です。祝福を祈ります。」

15:30 さて、一行は送り出されてアンティオキアに下り、教会の会衆を集めて手紙を手渡した。

15:31 人々はそれを読んで、その励ましのことばに喜んだ。

 「励ましの言葉」は、単に心を元気づけるための言葉ではなく、神の前にふさわしくする目的が含まれています。アンティオケの人々の喜びは、正しい神の御心が示されたからです。御心に適わなければ、神の前に立つにふさわしい者になることはできません。それは、こう歩むべきという激励の言葉です。

ローマ

12:8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。

勧めをする人であれば「勧め」→激励し。

ローマ

15:4 かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。

15:5 どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。

「励まし」→励ましと訳されていますが、神の御心にかなう勧めの言葉であり、激励なのです。

コリント第一

14:3 しかし預言する人は、人を育てることばや勧めや慰めを、人に向かって話します。

 預言者は、人を神の御心に適う者にするために語るのです。この場合、「慰め」の言葉ではなく、神の御心に適うような勧めの言葉であり、それを全うするような激励の言葉なのです。

コリント第二

1:3 私たちの主イエス・キリストの父である神、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神がほめたたえられますように。

1:4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。

1:5 私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれているからです。

1:6 私たちが苦しみにあうとすれば、それはあなたがたの慰めと救いのためです。私たちが慰めを受けるとすれば、それもあなたがたの慰めのためです。その慰めは、私たちが受けているのと同じ苦難に耐え抜く力を、あなたがたに与えてくれます。

1:7 私たちがあなたがたについて抱いている望みは揺るぎません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めもともにしていることを、私たちは知っているからです。

「慰め」→神の御心にかなう勧めの言葉による激励。その人の心情を落ち着かせるためではない。慰めによっては、耐え抜く力を持つことはできない。裁きの座で報いを受けることで励まされるならば、奮い立つことができる。

コリント第二

7:4 私には、あなたがたに対する大きな確信があり、あなたがたについて大きな誇りがあります。私は慰めに満たされ、どんな苦難にあっても喜びに満ちあふれています。

7:5 マケドニアに着いたとき、私たちの身には全く安らぎがなく、あらゆることで苦しんでいました。外には戦いが、内には恐れがありました。

7:6 しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことで私たちを慰めてくださいました。

7:7 テトスが来たことだけでなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、私たちは慰められました。私を慕うあなたがたの思い、あなたがたの深い悲しみ、私に対する熱意を知らされて、私はますます喜びにあふれました。

「彼があなたがたから受けた慰め」→「彼があなた方に対してなした御心に適う激励の言葉、」激励の言葉が主語として扱われ、その言葉が「激励された」という受動態で表現されています。動詞は、「激励の言葉」と同じ三人称単数です。テモテが主語であるかのように英語訳も日本語訳も訳されていますが、パウロが喜んだのは、テモテが慰めを受けたことではなく、神の御心に適う者になる激励の言葉が語られたからです。

7:11 見なさい。神のみこころに添って悲しむこと、そのことが、あなたがたに、どれほどの熱心をもたらしたことでしょう。そればかりか、どれほどの弁明、憤り、恐れ、慕う思い、熱意、処罰をもたらしたことでしょう。あの問題について、あなたがたは、自分たちがすべての点で潔白であることを証明しました。

7:12 ですから、私はあなたがたに手紙を書きましたが、それは不正を行った人のためでも、その被害者のためでもなく、私たちに対するあなたがたの熱心が、あなたがたのために神の御前に明らかにされるためだったのです。

7:13 こういうわけで、私たちは慰めを受けました。この慰めの上にテトスの喜びが加わって、私たちはなおいっそう喜びました。テトスの心が、あなたがたすべてによって安らいでいたからです。

7:14 私はテトスに、あなたがたのことを少しばかり誇りましたが、そのことで恥をかかずにすみました。むしろ、私たちがあなたがたに語ったことがすべて真実であったように、テトスの前で誇ったことも真実となったのです。

7:15 テトスは、あなたがたがみな従順で、どのように恐れおののきながら自分を迎えてくれたかを思い起こし、あなたがたへの愛情をますます深めています。

 コリントの人たちが御心に適った方向に向かったので、「慰め→激励」を受けた。この働きが、神の御心の実現という結果を見たので、さらに、自分たちの働きに関して、御心適う働きするように激励を受けた。信者が教えや勧めを受け入れて変わることは、その働きをなす者を激励することができる。

 テトスに関しては、「心→霊」が安らぎました。彼の霊が求めたことは、コリントの人たちが勧めに対して従順に受け入れ従うことです。その目的が果たされたので、休むことができるのです。

ピリピ

2:1 ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、

「励まし」→キリストにあっての励まし、すなわち、神の御心に適う者になる激励。すなわち、御国を受け継ぐ者であることを示して励ます。

 愛は、神の愛です。愛の「慰め」→慰め。慰められることの原理や結果に焦点が当てられている。ここでは、「愛」に焦点が当てられている。

 御心を行い歩むことの動機づけは、キリストの励ましにありますが、それを支えるのは、神の愛です。それを困難とは思わず喜んで歩むことができるのは、神の愛によります。

御霊の「交わり」→聖霊と「一つになる」こと。聖霊の業と一つになること。聖霊は、人をキリストと同じ者に変えようとしています。その神の御心に従った業を共有するのです。御霊の働きのままに従うのであれば。御心の実現となる。それは、特に肉を捨てて兄弟姉妹と一致すること。

テサロニケ第一

2:3 私たちの勧めは、誤りから出ているものでも、不純な心から出ているものでもなく、だましごとでもありません。

テサロニケ第二

2:16 どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、永遠の慰めとすばらしい望みを恵みによって与えてくださった方ご自身が、

2:17 あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。

テモテ第一

4:13 私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。

ピレモン

1:7 私はあなたの愛によって多くの喜びと慰めを得ました。それは、兄弟よ、あなたによって聖徒たちが安心を得たからです。

「慰め」→激励。

「安心」→休み。安心は、不安に対する言葉で不適。ここでは、聖徒は、ピレモンの愛に励まされ、例えば、霊的成長を遂げ休むことができたのです。

ヘブル

6:18 それは、前に置かれている希望を捕らえようとして逃れて来た私たちが、約束と誓いという変わらない二つのものによって、力強い励ましを受けるためです。その二つについて、神が偽ることはあり得ません。

励まし

ヘブル

12:5 そして、あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。

励まし

ヘブル

13:22 兄弟たちよ、あなたがたにお願いします。このような勧めのことばを耐え忍んでください。私は手短に書いたのです。

「すすめの」言葉→激励の言葉。